眠れない夜には条件反射で駄弁ってみることにした1

僕は文章を書いている。筆を止めずに書いている。思いついたまま駄弁っているので、ほとんど手は止まらずに書けている。何か考えているようで何も考えていない。そうやって生きてきた。本当は頭の中だったらカッコいいセリフとかもスラスラッとそれっぽく出てくる。しかしながらパソコンでタイピングをしていると、あるいは口に出すと、急に出てこなくなるのだ。夢を朝起きたら忘れているように、想像したことをアウトプットしようとするとなんか形にならないのだ。それがもどかしい。

 

実はすごいものを考えているんだぜと思ったりもするけれど、具体的に形にできないことで、それは幻想だったことが判明する。実はモヤモヤッと誤魔化して想像していることに、頭のなかで描いているうちは気が付かないのだ。思いつくだけなら誰だってできるという言葉は僕にとっては背中を押す言葉ではなくて、行動しなさいという戒めのように聞こえる。

 

さて次は何について語ろうか。いや、語っているのだろうかこれは。よく分からないツイート群である。さて今僕はとてもしんどい。心臓がドキドキするような、呼吸が浅くなるような気持ちである。それは他者のせいではない。本当に。むしろ助けて頂いているにも関わらず、タスクを全然こなせない、散らかってしまう自分にイライラするのである。困ったどうしよう、時間が足りない、いやどこから手をつけたらいいか分からない。

 

手先は不器用だけど算数とかはちょっと得意だからエンジニアとして食っていこう、というかそれ以外に自分がまともに生きていける道が見えないのだからそうするしかない。と思っていた。苦手なことが沢山ある以上、人並みかそれ以上にできることをメインウェポンとして食いつなぐしか方法はないように思う。いや、厳密に言えば工場勤務や清掃など、あるかもしれない。頑張れば食いつなぐことは可能だろう。だが、今強みが無い状態でぷかぷか浮いていると、将来の選択肢を狭めてしまうことになるかもしれない。それに快適とは程遠い、辛うじて生活できるような状態になってしまうのも少し怖い。ならば多少つらくても、向いてなくても、今生活に困らない程度のお賃金が得られて、少しでも得意なことと社会的価値に相関があるところで、頑張っていくのが現実的ではないだろうか。

 

ビジョンというのだろうか、やりたいことであって誰かに貢献できるようなものは特に思い当たらない。そりゃあ一人だけ楽しめればいいのだとしたら、僕はずっと算数パズルや音楽ゲームにふけって、黙々と取り組むことで安心したり、いつもより少し成長したり、何か法則を発見したりして、ああこれが楽しくて安心する気持ちなんだというのを再認識したい。そこから感じたことに対して哲学的にアレコレ考えたい。なんで生きるのかとか、どうして子孫を残そうとするのかとか、そういう話題の手がかりとして、自分の趣味とか経験が存在するのだと思う。

 

ああまた意味分からないことを呟いてしまった。そういえば職業としてアレコレするとしたら、必ずと言っていいほどコミュニケーションや管理能力といったものが必要になってくるように思うが、どうしても適応できるビジョンが見えなくて困っている。どうしたものだろうか。いや、タスクが溜まっていて、かつそのタスクのうち進め方に不安があるもの、止まっているものがあって、どのタスクも計画通りに終わらせられる自信を持てないと、パニックになるのだなあと思った。計画を立てられないのではなく、予定通りに実行できない、ずるずる後ろにズレてしまうことが多いのだ。これはマルチタスクが苦手だからだと思っていたけれども、この日はこの仕事だけやると決めたとしても、例えば仕様が頭の中でまとまらなくて1日を浪費してしまうような漢字である。どこから片付けたらいいか分からず途方に暮れ、数時間のやる気が徒労に終わるときに、自分自身に対する信用がどんどん損なわれていくのだ。

 

継続的な努力は継続的な内的報酬があってこそ成り立つものなんだと思う。例えば音ゲーだったらトリルと縦連、そのスピードと精度に拘りをもっているから、そこに夢中になるだけで勝手に内的報酬が生じるし、それによって自ずと継続する。いや、継続するというよりは、おうちでくつろぐ感覚にも近いのかもしれない。

 

短期的かつやることがハッキリしている場合の努力であれば不安を煽ることで可能だけれども、それだけでは長続きしない。少なくとも僕は根性のあるほうではないので、このやり方だけでは難しい。(ただやりたくなくてダラダラしているだけと言われたらそうかもしれないが、それをすぐ改めるくらいなら、こうして夜更かしをして文章を書いていることはありえない。)

 

そういえば真面目ってどういう動機によって発生するのだろうか。実現したいことがあるからそうなるのだろうか、あるいは嫌なことを避けるためにそうなるのだろうか。自分の場合は、衝突や争いがとても怖く、平穏を維持するために真面目に適応していた気がする。例えばトモダチが部活をサボろうと言ってきたとする。自分は頑張りたくてもそう言われたら反論することはできない。できたとしても少し強く押されれば、恐らくシタガウ。不真面目に見せかけた真面目である。バカ笑いも意識的にやっているので、そういうところが真面目である。しかしボロがでる。自分自身がやりたいことではない以上、どこか大根役者感があるのである。元々器用な方ではないから尚更である。

 

そういえば、自分の才能を悲観したり、他者に対して「器用な奴だ」みたいに別人と決めつけたりする行為に対して、罪悪感がある。と同時に、自分は怠けているだけではないだろうか、頑張っていないだけではないだろうか、そんな人はいつかみんなから嫌われて、将来の選択肢がゼロになるだろうという謎の不安がある。自分は才能ではなくて、努力や熱意、あるいは普通になれないことに対してコンプレックスを抱いているかもしれない。


だからといって何かのせいにするのも嫌である。だからよりどころの無い悲観は、全て自分に向ける。自分さえ悪ければいい、自分だけ不幸になって他の人が幸せならそれでいい、という独りよがりな考え方に陥りがちだ。

 

感謝も多い。自分がどうあれ、仕事上必要なことを率先して助けてくれる仲間も多く、人間関係については理想的だと思う。いい人たちすぎてしんどいくらいである。この恩は仕事で返すしかない。

 

当然利益を上げる必要がある以上、効率を考える必要がある。効率とは何時間かけたらいくら儲かったかである。それ以上でもそれ以下でもないと僕は考える。そこに「今反映される効率」と「長期的に反映される効率」があるのは確かだが、人間関係とか、仕事上の支援とか、管理とかそういったものも、「プロジェクトを成功させること」「生産性をあげて、その対価として、自身やメンバーの生活、投資家へのリターン、次なる成長のために必要なお金を回収すること」が狙いなのだと思う。そして会社としての夢を実現するための、船員である。船員は船長から搾取される関係でもなければ、泥棒でもなくて、協力関係である必要がある。つまり、メリットを提供し合えるし、そうすることに合理性がある必要がある。

 

そういう意識高いことを考えているつもりでも、脳内お花畑の自分は、やはりかなり霞んで見えている概念である。そもそも自分自身の「ただ手を動かせばいいレベルの仕事」さえも適切な判断ができず、適切な成果物を作ることができていない状況なのだから、まずは手を動かしていけるだけのスキルが必要なのである。

 

しかし努力云々はさておき、現状、純粋に「頭が悪いな俺」って凄く思う。例えば、エクセルに入出力の仕様をまとめますと言っても、どこから説明したらいいか分からず、1時間経っても白紙のまま、もしくは複雑な文章が生成されて困惑させてしまうことが多い。頭の中では、画面があって、そこにユーザがこういう情報を入力すると、このデータ群からこういう情報を検索してきて、こういう計算をして、こんな風に出して、こういう風に保管するよ、みたいな流れが見えていても、それを実際に形にすることが困難である。技術的な地力が足りない。

 

僕が唯一客観的に得意と言えるのは競プロだと思う。音ゲー弐寺8段、周りより上手くないレベル。に対して競プロはAtCoder黄色レベル。5年以上やっているだけあって安定感もついているけど、音ゲーよりも頻度も歴も少ないし、大きく地力が伸びたのは情報オリンピックの問題を解いていた半年くらいであるから、努力して伸ばしたというよりは、センスと典型力と、惰性で毎回コンテストに参加し続けたことが要因として上げられると思う。

 

そういえば成長曲線というのは、僕はlog(time)に定数を掛けたもののようなイメージを持っている。定数はセンスに相当するものなのかなあって思う。y軸はトリルの速度とか、問題を解くスピードとか、まあスピードに関する項で考えるのが分かりやすいかなって思う。イメージとして、最初は速いが、徐々に伸び悩む感覚を持っている。ただ、正確には階段のようなジャンプがあって、ある部分でのつまづきというのが解消されると、飛躍的に伸びる瞬間というのがある。練習によってある程度の地力が備わった状態で、コツに気づいたときという感じだ。

 

ああまた夜更かしをしてしまった。明日も仕事なのになあ。謎の余裕ってあるよね。あまりにもどうしようもなくなると、諦めがついて、かえって落ち着くような。あれって生物学的にはどういう仕組みなんだろう。ちょっと気になる。

 

ところで気になると思ったとき、本気で気になって調べるというよりは、会話のたたき台を作成しているような気分であって、これが僕にとって「誰かに展開して欲しい、話のタネ」になっているのである。特に目的があるわけでもなく、強いて言えば親睦を深めるため・あるいは自身の体験を共有していい気持ちに浸るため、日常的な話題を話すことってあると思うが、それに近い感覚である。

 

僕には友達は少ないけれども、どちらかというとみんな友好的に接してくれていると思う。成果を出すために必要であれば、あるいはその人自身の価値に牴触するのであれば、多少手厳しいときがあったっていいのだが、幸いにも平穏な関係性と言えるであろう。周りの人々にはやはり感謝してもし足りないくらい、良くしてもらっている。

 

一方で自身のカオスを共有できる人がいないというのには少しばかり寂しさを覚える。面白みもあるわけではないし、とっかかりになり得るものはどこにもないのだから、遠慮しても仕方がないと思う。いや、「いない」「仕方がない」といって、全て受動的な行動に走ってしまっていないだろうか。「決めつけることで素直になりたい、現状をはっきり口にすることで安心したい」という気持ちがある一方で、「それって努力を放棄することになるのではないか」という気持ちもあって、その中で葛藤が生じているのである。

 

そんなこんなで思ったことを文章で書いてみた。深く考えているなんてとんでもない。まるでAIが作成した文章のように、それっぽい言葉を連ねているにすぎない。連想ゲームの断片なのである。AIに謝った方がいいかもしれない。最近のアルゴリズムと学習の仕組みは優秀だから、人間と遜色ない文章を出せるものだって沢山ある。そういえば不自然な文章には、コンピュータらしさがあったりもするけれど、コンピュータがおこなう一つ一つの演算って規則的だから、統一感という意味では自然になりやすいのではないかと思ってしまいがちである。どちらかといえば、統一感のない気分で書いた「人間らしいもの」こそが不規則で、不自然なのではないかとさえ思う。でも人間らしいものは人間にとって自然である。ここら辺のさじ加減は今一つ分かっていない。

 

自然かどうかを判定する上で重要なものは、想定されるルールと一致しているかどうかと、物理的な規則性があるかどうかの2点であると思う。人間にも本当は物理的な規則性があって、その暗黙の規則と不一致な挙動をしめせば不自然とみなすのであろう。ところで、人工的な自然って面白いと思う。手を加えている緑なのだけれども、自然とは手を加えていない状態なのだから、このちょっとした矛盾感が好奇心をそそる。

 

なんかどうでもいいところに考えが飛んでしまったなあ。「そういえば」「ふと思ったけど」を頼りに、一貫性とは程遠く、ちょっと関連するようなしないような話題をドンドン展開していく思考が向いているかもしれない。謎解きやパズルだったら、部屋をめちゃくちゃに散らかして、一つ本質を見つけたら、最低限の論証をして通すことが多い気がするので、こういうのは得意寄りだと思う。一方で、一貫性や無矛盾・網羅性を要求される思考は苦手だと思う。詰将棋は苦手だし、システム開発も苦手意識がある。理系のイメージとして真っ先に浮かぶのは後者なので、その部分において期待値と実情に対して誤解が生じやすい部分なのかなと思う。

 

そこにしか行けないと思うから、他にどうしたらいいか全く分からないから、とりあえず居座るための努力をしてしまうのを変えたい。本当は自分が好きなこと・心が満たされることがしたいけれども、何をしたら満たされるのか、満たされながら最低限の生活が担保されるのか僕には分からない。最低限の生活には自分だけではなく、親や兄弟の生活もかかっているのだから、自分さえ生活できれば十分とは限らないというのも、念頭に置いておく必要がある。

 

僕は何にも縛られたくない。何にも不安を感じたくない。できれば木陰でずっと寝ていたい。だけどそれは現実的には不可能なので、どこかで頑張る必要がある。やりたくないからやらないみたいなことは毛頭言うつもりはないけど、集中力を維持するのが難しいという問題は昔からあるので、興味か能力どちらかでマッチするものを選ぶ必要がある。

 

同じでしょって思われている文化のなかでも、空気感や求められているものが全然異なるケースはある。競プロ界隈とエンジニア界隈では全然違う感じがする。でもそれを言語化できなくてモヤモヤしている。僕は開発の人がパズルで苦戦してあれ?と思うように、開発で苦戦してあれ?となっているのである。

 

とりあえず今日は寝ることにして、明日また考えることにする。できないことはできないのだから、無理な計画を立てすぎないようにする。

 

なんか一つも物事が進まない考え方をしてしまっている気がする。表面をなんどもなぞる不毛なループ思考をやめて、一つでもタスクを減らしたい…。だからといって適当にやるのもダメだし、放置もダメなので、うー。

 

僕がモチベーション低いと、周りにも影響が出ると思うのよね。やっぱり楽しそうに働いているのが一番嬉しいだろうから、楽しみたいと思うのだけれども、なかなか思うようにいかないなあ。僕自身が一番楽だと思っている立場でこれなのだから、将来思いやられます。

 

競プロだけで食っていくこと(お金を回収すること)は現状ほとんど難しそう(少なくとも僕にとっては無謀)に見えるし、正直に言えば「好きだけれども、一途になれるほど情熱的でもない」からうーんだよね。強みにすることは出来ると思うけど、現状は全くと言っていいほどできていないよね。むしろ「あー黄色コーダーでも、仕事出来ないやつは全然できんのか」というのを見せてしまっていて、競プロerの「信頼性」を僕が落としてしまっているんじゃないかと不安になる。

 

とりあえず好きなことがそれで良かったなとも思う。好きになるものが、社会的に認知されているかそうでないかで、将来の道や世間体が変わってしまうことが、僕は正直嫌だと思っているけど、現実逃避するよりかは、社会的に認知させる方向に持って行くか、そういうのを一切気にせずに楽しむ時間を作るために普段一定以上の頑張りを見せるのが一番いいんだろうなあって思う。

 

思ったことがある。全部自分ができないからダメなんだと自分のせいにしているように見えて、本当は批判されないために予防線を張っているだけなんじゃないかと。ごめんなさいと先に言っておけば、謝っておけば、相手からは手を出しづらい、それを前意識的に利用しているのではないかと。

 

もちろん意図してやっているつもりはないし、危機感は持っているけれども、行動できていないので、もし上記のように捉えているのだろうと思われても致し方ないだろうし、自分だって本当はそうなんじゃないかと思ったりもしている。

 

まあ一理あるのではないかと思う。もっと感情的な部分ではなくて、自分が出した結果や起こした行動を率直に捉えて、非効率的な部分や曖昧な部分があったら解決しにいく心構えが必要かなと思う。問題はそれを見つけることはできても、収拾がつかなくなって不安が増えるだけという状態にあるのだが。1日あれば、1時間あればできる改善案を8個実行することができるので、そのくらいのスパンで実践していけるのが一番いいけど、実際には小さいことでも1か月かけてしまうことがザラにある。

 

スピードを気にしがちである。とはいえスピードというのは「明確な理解」があれば出すことはできて、落ちてしまうのは「分からない・決められないこと」があって「頭がこんがらがっているから」だと思う。ということは品質も低い。クオリティを上げれば自ずと中長期的なスピードは上がると思う。理路整然としていれば、手も加えやすい。

 

だから品質を上げればいいのだが、陥りやすい罠として「~にまとめよう」がある。そもそも、それが難しい状態なことが多いので、まずは気になることを箇条書きで列挙していくのが重要なんじゃないかと思う。そして罠としては「箇条書きするときに、トップダウンにならず、細かいところばかりを気にしすぎてしまう」がある。最初からトップダウンである必要はないのだが、目的や動作がハッキリしている書き方が出来ると良いねと思う。

 

大抵は綺麗に物事は進まなくて、足りないものがあるから、どこかで妥協する必要があるのだけれども、「その妥協は重要な決定かどうか」「じゃあどういう流れで目的を達成するように、ルートを変更しているのかどうか」は常に気にした方がいいのかもしれない。それをする合言葉「そもそも」がある。前提については意識して、なるべく一人で思い込んでいそうなところは洗い出したい。

 

うーん、疲れたから寝よう。無思考で書いているだけあって、あんまり良くないことも書いていると思うので、あとでこっそり直そう。(そう言ったものが直されたこと、なし)